昭和四十五年四月十五日  朝の御理解


X御理解第四節  「此方金光大神あって、天地金乃神のおかげを受けられるやうになった。此方金光大神あって神は世に出たのである。神からも氏子からも両方からの恩人は此方金光大神である。金光大神の言ふ事に背かぬやうよく守って信心せよ。まさかの折りには、天地金乃神よ云ふに及ばぬ。金光大神助けて呉れと云へばおかげを授けてやる」


 金光大神の言う事に背かぬやう、よく守って信心せよと、ここのところが私は一番大事だと思う。
 例えば金光大神の言ふ事に背かぬやう、よく守ってとおっしゃる。教えを頂いて、それを守る。金光大神はそう難しい事をおっしゃっておられませんですねぇ。とてもそうゆう事は出来ん、といったやうな事は教えておられませんが、改まるとゆう事、信心は日々の改まりが第一とおっしゃっるが、その改まって言う事を聞くとゆう事は皆んなが出来ません、言う事を聞く事は、御教のどこをどう頂きまして、そう難しいと思いませんけれども、ゆうならばそれを実際に例えば御理解の五十節にです。「兎角信心は地を肥やせ、常平常からの信心が肝要じゃ、地が肥えて居れば肥をせいでも、ひとりでに物が出来るやうなものぞ」と有ります。ひとりでに、物が出来る為に、常日頃からの地肥しと云うか、根肥しと云うか、それが大事だとゆうこと、私はそれは云うならばです。一番自分にとって難しい神さまが教えて下さる事の中でもう自分にとって、一番難しいとゆうことにですね。取り組んで、そこのところを私はよく守って信心させて頂くとゆう事が私は地肥しになると思うですね。仲々難しいですね、ですけどそこのところに焦点を置いてです。私は今日は、これが地肥しになるのだ、これが金光大神の言うて下さる事を守っておる事だ、と。
 容易い事を百守るよりもですね、本当に自分にはそれが難しいと、思うやうなところをですね、ひと言守らせてそこに焦点を置いたが一番、それは根絶やしになる。
 例えて申しますと、昨日椛目の内田さんの所のお父さんの五十年の式年祭が有りました。それこそ真心いっぱいのお祭りでした。
 その奉仕を私がさせて頂きましたらね、頂いたんですけれど、「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」と頂きました。
 これはですね、ですから、これは難しいとゆう事はですねぇ、甲の人には容易くても、乙の人には難しい、乙の人には容易うても甲の人には難しいとゆうやうにです。これは同じじゃないのですよ。
 ですからね、それが守れなかったらね、他の所を例えば百、守りやすかとこを百守ったちゃです。云うならもうそこから、おかげ受けられる、受け物が無くなるですねぇ、ですから、やっぱり大事なところですよねぇ。
 皆さんも御承知かどうか知りませんけれど、桜とゆう木は、もう木を切ったら、そこから腐っていって、枯れていくそうです。桜の木は‥‥‥。だから桜切る馬鹿です。大きな枝でも折ったらもうそこから必ずこう腐っていく。とにかくもう枝を下すやうな事をすると、そこから枯れるとゆう事です。
 それとは反対に梅はですねぇ、切らなければ翌年花が咲かない、実が實らない、梅切らぬ馬鹿です、だから‥‥‥。梅は出来るだけ切らにゃいかん、桜は切っちゃならん。
 それでそれは、どうゆう事になるかと云うとね、桜とゆうのは目先のやはりパーッとした事だろうと思うのです。梅とゆうのは私はお徳とおっしゃるのですから、信心辛抱とおっしゃる位ですから、これこそお徳になると、これこそ信心だと思うたらね、それこそぼんぼら坊主になるやうに切ったちゃ後はかえっておかげ頂くとですよ。あのしだれ梅なんか見て御覧なさい、もうぼんぼら坊主に切ってしまわなければ、あんなきれいな花が咲かないでしょうが、惜しいからと云うて切らなかったら、駄目です。
 桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿、どちらにしたって馬鹿ですから私共が桜を切らんでおかげを頂き、利口もんになり、梅を切って利口者にならして頂こうと、ゆうのですね、桜を切らずに利口者になろう、又梅を切って利口者になろう、利口者とゆう事は、おかげを頂かれる私になろうと云うのである。
 だから、これは内田さんに頂いた御理解ですけれども、その内田さんの事が皆さんに適応するかどうかとゆう事は分かりませんよね。
 私はこれは、どうゆう意味の事だろうかと思うたんですよ。そしたらね、今頃御本部参拝の時にお参りされた方はお気付きだったでしょう、広島で三番目の息子さんの耕二さんが帰りの汽車の中で皆さんに大祭のお供えと、私へのものと、そして皆さんにパンを一つずつ大きな箱に入れて、あくる朝皆さんに配りましたのは、あれは耕二さんが広島で差し入れをしたもんですよ。
 あのパンを一つもらったからと云うて、お互いがです。どの位耕二さんがおかげ頂いたか、ひとつ、ふたつなら二十円か三十円かしらんけれども、五十ともなりゃあ、相当の金額です。その事を頂くんですよ。
 これなんかは、もう桜切る馬鹿です。信者さん皆んなにもう一人残らず、それこそ五十人の人に、行き渡るやうにそんなら耕二さんがですよ。広島でそれこそ大変なおかげを頂いて、それこそ桜の花がもう咲きほこる程しの、例えばおかげを頂いておると致しましょうか、それならね、もうそれこそ、ひと枝、ふた枝落としたっちゃ問題ないでしょうけれどもですよ、まあだ今云うなら、子供多しの最中であり、そんなら大した財産を作っておるのでもないのに、あれだけの事をする事は、まあ相当、ひびく事だと思うのですけれども、そうしなければ、おられないやうなめぐりを持っている訳です。内田さんの家では‥‥‥。
 もう本当に馬鹿んごたる話しですよね、本当に桜切る馬鹿ですよ。誰が喜ぶかて、パンを‥‥‥。
 それは内田さんには本当に御馳走さまでしたとゆう位は言おうばってんです。それけん今度は耕二さんが来なさったら、うちでもお茶一服上げようと云う人は、おらんでしょうが、又それがしたところで、そんな事ではなあにもならんとゆう事。
 性分ですよねぇ、自分はもう例えば貧乏しょったちゃ、そうしなければおられないとゆう人がある。だから、ある人はあちらは仲々美しかと言う訳です。けれども、そうゆう場合にあの人は美しかと云われとったら、いつ迄たっても、おかげ頂ききらんです。
 ですから、これは皆さんの場合じゃないですよ、内田さんの場合ですよ、皆さんはそげんとこをちった真似せんならんとこがたくさん有ろうと思うのです。だから、これは内田さんの場合はです。そんならその事が一番難しかです。
 もう例えばね、広島でああして皆さんにパンの一つずつでもお配りせんならんとゆう事は非常にきつい事です。耕ちゃんとしては、だからそこをいっちょ修行と思うて、頑張らにゃいかんとゆうのですから。
 これはもう内田さんの一家は皆んなそうです。いわゆる過ぎた事は及ばざるがごとしです。そらしてですよ、これはと。だから、ゆうべも申しました。ここぞと言うごたる時にはね、ぼんぼら坊主になるごと切ったちゃよかなと、それが例えば徳になる事ならば、それが信心になる事ならば、五十人の人にパンを一つずつ配ったちゃ何になるかと、その時桜の花のパーッとしたことでそれは散ってしもうて、なあにもならん、なあにもならんだけならよいけれども、その切った所から例えば虫がついたり、水が入ったりして腐っていく、とうとう繁盛しきらんなりにしまえたとゆう事になる。そうゆう事を繰り返しよったら‥‥‥。
 だから、これは皆さんじゃない内田さんの場合は、そんなら、ここのところをしないとゆう事はね、例えばそこんところにお金を使わないとゆう事はもう大変な難しい事、使った方が、自分も気持ち良か、けれどもそうゆう事しよったら大変、それと反対のところも有りますよねぇ、もうせにゃならんとこにでん、もうこうやって握っとる人が有ります。又、それもいかん。ですから、例えばここはとゆう、そんなら昨日霊さまのお祭りを奉仕させて頂いてから、本当にもう例えて云うなら鯛なら鯛のお供えをするでも、それこそ大祭の時、お供えするごたる鯛がお供えしちゃる。
 だから、内田さんここんところはどがしこ、ああたが打ち込んだっちゃかんまんとゆう事です。それが又、出来る人なんです、
 けれども、片一方に梅の木もぼんぼら坊主になるごとしよるけれども、桜の木もぼんぼら坊主にしよるから、いつも同じ事です。してもせんでも同じ事とゆう事になってきよる訳だから、馬鹿らしい話しじゃないのて、私はもう子供達、一人一人にそれを申しました。
 だから、もう本当に学校の先生にお菓子箱どん、持っていくやうな事は決してしちゃならんばのと、私は申しました。なあにもならん事、なあにもならん事だけではない。あそこから、お菓子箱のいっちょでんもろうたとゆう事で、そんなら子供がひいきされるとしましょうか、もうそこから子供の運命が崩れてくるやうな場合が有るとじゃから。
 だから、そげな事する事はなあにもならんだけではなくて、運命迄狂わせる結果になるのだから、もうそれがなかったちゃ、それがしようごとしてこたえん。せにゃおられんといったやうなめぐりを持っておる訳です。だからそれをしないとゆう事は、大変な修行だろうと思います。内田さんの場合は‥‥‥。 ですから、例えば内田さんが今日一日、そげん事はせんぞとゆう事に取り組む事は、大変な修行だと思います。
 私は今日はそうゆう意味に於いてです。金光大神の言われる事を背かぬやう、よく守ってと、よく守ってと、ゆう事は一番おかげの受けられない、と自分で知っておる事。
 それは本当に難しい事です。私も昨日を境にです。私におって一番難しい事をもう昨日を境に改まろうと決心した事が有るです。
 昨日、竹内先生の所に総代さん方、それに有志の方々でお祝いにみえられました。そして夕方帰ってみえられました。そして夕方帰って来てから、私丁度お客さんがあっておったから、応接間におりましたので、あちらでいろいろお話しさせて頂きました。そしてまあ昨日の朝の御理解をです。まあめったに聞かんものですから、私はもう一生懸命、それこそお茶出してからでも、御飯出してからでも、ゆっくりさせて、もう一生懸命、話そうと思う訳です。いつも、皆んなが普通頂かんものですからね。
 だから昨日の朝の御理解なんかは、「テキスト」とゆう事を頂いた。テキストとは教科書とゆう意味だそうですねぇ。だから昨日の御理解なんかは、もう金光教の教科書です。あれだけを覚えておったら、どげなおかげでも信心でも、云うなら説明も出来る訳です。金光さまの御信心の‥‥‥。
 だからそげん頂いとったものですから、その事を私は皆んなにも分からせようと思うて、帰って来たものをつかまえといて一生懸命話したんですよ。
 なる程、私が一生懸命話すから、聞いてはおりますよ、けれどもうすうす今迄感じない訳ではなかったけれどもです。これが私のめぐりだとは知らなかったです。私は本当です。
 今日はだからほんなひと言、皆さんに聞いてもらおうと、思ったけれどもです。御結界からの場合は、本当に皆さんに助かってもらいたい思い、一念がです。お話しになってくる訳ですから、もう私はね、御結界を下りてからの信心話はね、もう金輪際するまいと思うたです。昨日から本当に‥‥‥。
 それは求めて来れば別ですよ。けれども、つかまえてからでも、さあお茶でも出してから、御飯でも出してからでも、お茶飲みながら話し、御飯食べながら話すけん、やっぱもう鼻につく訳です。
 だから、私がちょっと便所にでも立ちましたら、もうその隙に、おかげ頂きましたと云うて、皆んなが帰るです。それを今迄私は感じておったけれども、まだそんなに迄はひどく感じてなかったです。
 ところが昨日も私お食事済んでから、私が立つと皆んなが立つものですから、辛抱しとったけれども、もう霊さまのお祭の奉仕もせにゃならんから、風呂入った風呂入ったら、もう上がった時には誰あれもおりませんでした。もうよか幸いで、くもの子散らすやうにして、帰ったに違いないです。おると又話聞かにゃならん訳です。
 ですから、そんなにいやがっておるものをです。それは、いくらおかげを頂かれる話しだからと云うてです。つかまえて話したところで、おかげになるはずもないし、そしてんそれが自分のね、これは改めなければいけない事だったと、気がつかせて頂いたんです。
 昨日、佐田さんが二度目のお参りをなされました。そして、ここで長々とお届けが有りました。それを聞きよったらですね。頭が痛うなったんですから、私は‥‥‥。もう私は佐田さんが帰られて下がった時には、顔が青うなっとたんです。
 どうした事だろうかと、もうお話しを聞きよったら、それはもう見事なお話しなんですよ。どうしてじゃろうかと、私は思わせて頂いて神さまにお願いさせて頂いたらです。陽と光が火花を散らすところを頂いたです。
 例えばあちらが光、私が陽の光、それがここで火花を散らす訳ですねぇ、私は黙って聞くだけだけれど。
 だから、どうゆう意味であろうかと思うておったけれどもです。昨日その皆さん達にお話しをした後でです。ははあ、これだなと私は思うたです。
 皆さんが求めて頂く解き、皆さんが私のお話に酔うやうにして頂いておられる時は又別だけれど、私が今日はこげなよか御理解じゃった、有り難か御理解じゃったけんで、ちょっと聞きなさいと云うてです。つかまえて私がお話しをするといったやうな事はね。これはいよいよ相手の頭の痛うなるやうな事だと私は思うたです。
 だから、私のお話しは半分にも、三分の一にもしたいとゆう風に昨日から願わせて頂いた。だから、私にとってね、人をつかまえて信心話をしないとゆう事は、もうそれは大変に難しい事なんです。
 これは佐田さんなんかの場合にもそれが云えるだろうと思います。もう今頃どこどこに行って二時間話しました。今頃とうとうと三時間も天地の御恩徳を話させて頂きましたと云うけん、ほんに素晴らしい事なあと私は云いよったばってん、これは佐田さんのガンです。そうじゃないです。どんなに有り難い事でも。
 昨日も帰りがけに申した事ですけれどもね、本当に有り難いならね、私が佐田さん阿部野の先生の事をいつも話しましょうが。
 あれだけの大変なお徳を受けおかげを受けられた方が金光さまにお届けをされるのに、「金光さまおかげを頂きまして有り難うございました」とゆうその有り難とうございましたの中に千万無量の思いをこめて有り難うございますをおっしゃるやうにならなきゃいけませんよ。
 だから、ここのところは私の事であり、佐田さんの事ですよ。皆さんの場合じゃないです。皆さんな話さなならん事でも話しきらんでしょうが、今日の御理解は有り難かったと云うけん、家に帰って家内にも話そう、主人にも話そうと思うたっちゃ、話しやしきらんでしょうが、だから皆さんも稽古しなければならない。
 この事はもう内田さんの事です。ですから、内田さんの場合はです。例えば、云うなら美しすぎるとゆう、美し過ぎるとゆう事はよい言葉で云う悪口ですけれども、それが内田の家のおかげを受けられんガンなんです。
 私は昨日思いました。佐田さんの所でも、あちらのおばあちゃんやら泰造さんやらは偉いなあと、例えばあのお話をいつもお聞きになりよるじゃろうが、やう頭の痛うなんなさらんこと、と私は昨日、思いました。
 それはどんなにいよいよお話しでもそうです。もう鼻についたら駄目です。相手に鼻につかせたら、いかにそれが天地の道理であろうが、真理の話しであろうが、それを本当に求めて話し合う時、これは又別です。
 ですから、佐田さんにとってその話しを三分の一にするとゆう事は大変な修行です。もう本当にこの話しを聞いてもらいたいと思う話しを聞いてもらえんのですから。
 ただし、私はこの御結界からお話しをする時は又別ですから、昨日菊栄会の方達が月のうち十日位しか参って来ません。ですから、二十日の間の話しをこの人達にも聞かしてやりたいとゆう話しがたくさん有るのですよ。だから、もう私が月次祭の時なんか、つかまえといて一時まででも二時まででも話すもんですから、もうクーッとする訳でしょうねぇ、だから、隙が出来たらパーッと雲の子散らすやうに帰るわけです。こげな愚はもう今から本当にするまいと、私は昨日思うたんです。
 ですから、これからは私はもう御結界を下さった、お話しはせん事に‥‥‥。皆さんが求められたら別。でなかったらですねぇ、それ程、美しいものを持っておる内田さんがおかげ受けられないとゆう事は、こんな惜しい事はないでしょうが、皆さん考えて下さい、美しすぎておかげ頂ききらんと云うのですから、それはどこかと云うと桜切る馬鹿なのです。そして梅も切りよるけれども、それが大したおかげになっていない。
 私がするお話しは、このやうな素晴らしいお話しですけれどもです。相手がそれによって、おかげを頂ききらなかったり、それが例えば苦になるやうなお話しを私がしておったとすると、これは本当に惜しい事でしょうが。
 佐田さんの例をとりましたが、佐田さんがお話しが上手、信心も出来ておられる、もうお話しを聞いてそれをテープにでもとって文章にでもしたら素晴らしかろうと思う位に、素晴らしいお話しもなさるけれどもです。それが本当に受け心のある時には有り難く入っていくけれども、でない時にはです。又かとゆうやうな気を相手に与えたらです。それではもう決しておかげにならんです。ですから、私やら佐田さんがです。もう今日からは話さんぞと、ゆう自分の話しを短縮する事は私にとっては大変な修行、佐田さんにとっては大変な修行であろうと、こう思う。
 けれども、佐田さんに私がもう前の晩に松栄会の方達に私が一人、一人をそれこそ、そのものスバリに切って捨てるやうな教導を受けられた話しですが、私もどうぞ、お願いしますとゆう風な事を云われるから、佐田さんああたのその話しをね、半分にされる事ですよとゆう意味の事を申しました。「はい、それがもう私のガンとゆう事は知ってります」と云いよんなさいますもん。そう云いながら、それこそ又、とうとうとして言われる。
 私は神さまの方ばあっかり向かいとりました。そうせにゃもう私は頭が破裂するごとありました。それでも、やっぱり頭が痛うなったんですから、私は。 有り難うございますと願う事でも有り難うございますでもですね、そう時間のかかる事じゃない、本当は‥‥‥。ここのところはお届けしとかにゃならんとゆう事は別ですけれども‥‥‥。
 ですから、これは佐田さんの場合です。皆さんの場合はまちっとどうか言わんでんよかのと云うごたる人がたくさん有ります、あんまり簡単で‥‥‥。
 もう本当に、そっけのないお届けをする人が有ります。内田さんの場合でもそうです、そげんとこは、まあちっと美しゆういかんのと言いたいごたる人がたくさん有りますよ。ところが内田さんの場合はそれをしたらです。桜を切る馬鹿になるのですから、私が佐田さんがそこんところだったら、桜切る馬鹿になるのですから、ここぞとゆうところは、ぼんぼら坊主になるごと、切ったっちゃかまわんですから、云わば私にとっては、一番難しい事、佐田さんにとっては一番難しい事を今日は皆さんに聞いてもらったんです。
 その難しい事に取り組む事がです。私は金光大神の言う事に背かぬやうよく守ってとゆう事は、そうゆう事だと思うのです。それが五十節を例にとりましたやうにそれが根肥やしになるのだと信じております。
 ですから本当にひとつおかげを頂きましてですね、根肥やしになるおかげをね、頂いて頂きたいと思います。どうぞ。